【私のウィーンの思い出滞在記】

もう40年近く前になるのですね。
当時大阪万国博のイタリア館で働いていた時に、私がこの世界に入るきっかけとなった料理界での紹介者でもある調理師学校(私は調理師学校には行ってません)の先生から「飯田君、私の友人の弟子がスイスから帰ってくるから替わりに行かないか」とのお誘いの電話があり、万博会場に来てまだ1ヶ月しか経っていなかったが、一も二も無く「行きます」と返事をして東京へ舞い戻って来て、いろいろと話を聞くと「スイスへのビザが中々下りない、そこでもしヨーロッパに行きたいのならとりあえずどこかの国で働いてチャンスを見つけるのが早い」と言われ、私は何処でもいいと思い、話を進めてもらった。その人はチューリッヒのホテルで働いていたのだが国際電話で段取りを取ってくれ、ウィーンで日本人が働ける店があるとの情報が直ぐに入った。


写真のキャプションを入力します。イス、オーストリアは小学校時代行ってみたい国のベストワンであったから「是非お願いします」と返事をし、早速手続きに入った。当時は1ドル360円の時代で持っていけるお金も少なく不安だったろうと聞かれることもあるが、私には行ける事の嬉しさでどうでもいい事だった。何で1ドル360円なのかと言えば「丸い円」は360度なので「日本円」は360円に決まったと聞きましたが、今聞くとふざけた答えなのか親父ギャグなのか笑ってしまいますが、とにかく手続き全て終えて羽田空港から今は無きイギリスのBOAC機に乗りロンドン経由でチューリッヒに向かった次第です。ロンドンで乗り換えがあったのですが外国の地に着いた初めての土地だった事もあり、乗り換えとはいえ廻りは全て外国人。当たり前と言えば当たり前で外国人はこの私なんですね。そのとき誰かから話し掛けられても英語がよくわからず、今思えば無鉄砲な外国行でした。
無事乗り換えも済み、チューリッヒでウィーンの仕事先の紹介者に会い、そしてウィーンへと向かうわけですが、次号より私のウィーンでの昔話を思い出しながら一頁ずつ書き加えていきたいと思います。

【ドナウ川沿いのレストラン】

はじめてウィーンの地に着いたのが1970年の春でした。ドナウ川の傍にある魚料理のレストランといわれ、まず想像したのがヨハンシュトラウスの「美しき青きドナウ」の名曲が頭に鳴り響き、どんなに素晴らしい街なのかを想像して飛行機に乗り込みウィーン上空では家屋や走る車と共に見えた川がドナウ川なのかと思い、空港から一路タクシーで向かった。レストランの片側に流れているどす黒い川がドナウ川と聞きショックを受けた覚えがよみがえる。
聞くところによると空が快晴であればその空が反射して青くなり、曇り空だと今日のような色合いになるんだと聞いたときは納得。
ヨハンシュトラウスは快晴の日にドナウ川周辺を散歩しながらこの曲を書いたのかな、と思ったらヨハンシュトラウスはドナウ川など見ずにこの曲を作曲したそうですがウィーンにいたシュトラウスが見たことが無いというのは嘘でしょうが、いつものドナウの光景を思い出しながら作曲したのでしょうね。




ウィーン1区のドナウ運河沿いに遊覧船乗り場があります。初めてドナウ遊覧船に乗って、ドナウ運河からドナウ川に出たところでこの曲が流れてきたときは感激でしたね、このドナウ川、昔は曲がりくねっており現在の真っ直ぐなドナウ川となったのには土木工事の皇帝として知られるフランツ・ヨーゼフのドナウ川護岸工事(1870~75年)によるもので、春先の雪解けシーズンの洪水解消が目的の大工事だったようです。


私のいたドナウレストランも春先になるとレストラン一体が水浸しになりその日は営業中止となっていましたね。今ではそんなこともなくなったと思いますが今はどうなっているんでしょうね。
一昨年、当時のシェフであった「ルディー」から私も辞めてから何十年も行っていないので一緒に行こうと言われレストランを尋ねたら、ご主人は亡くなられおり奥さんが頑張っていた。

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